谷川士清と たぬき


「木狸庵先生」と言えば、作家・故遠藤周作氏のことですが、今をさかのぼること三百年、元祖・木狸庵先生が三重県津市の八町(伊勢国安濃郡八町)にみえました。

我が国最初の五十音順国語辞典「和訓栞」全93巻「わくんのしおり」、
「日本書紀」の注釈書の「日本書紀通証」35巻を著した 
国学者・谷川土清=たにがわ・ことすが(宝永6年 1709.2.26生まれ〜安永5年 1776。10.10)がその人です。

 人間の顔を大別するとキツネ顔とタヌキ顔があります。
士清先生、今に残る晩年の肖像画を見ると、確かに典型的なタヌキ顔タヌキ体型ではありますが、「木狸庵先生」の由来はその顔にあるというわけではありません。

さて、たぬきと士清先生のおはなし。


ある春のことでした。夜もすっかりふけて、もう誰もが寝床の中でぐっすり眠っているころ、医者の士清先生の家の表の戸をトントンたたく暑がいました。
士清先生は学問が好きで、毎晩夜のしらじむまで起きていました。

こんな夜中に誰もたずねて来るわけがない、風の音だろうと思い気にとめないでいると、またトントン戸をたたいています。やっぱり誰かたずねて采たらしい。ハテ、今時分、誰やろか?

 戸口に立って「どなたですか」ときくと返事がない。おかしいなぁ、やっぱり気のせいか、それにしても…・一応念のために戸口を開けると、背の低い男の人が一人うずくまるようにして立っていました。

 「
どうしたんや?」と聞くと、その人はしゃべれないのか、身振り手まねで家に病人が出たので診てほしいと説明します。
外は真っ暗でぶっそうな時間でしたが、急病人と聞いては放っておくわけにはいきません。
薬叩箱を手にしてその男の案内に従いました。

 男の足取りは速いようで遅く、遅いようで速い。土清先生は妙な気持ちになってきました。
辺りが暗いせいか、歩き始めてからもう随分時がたったような気もするし、ついさっき歩き始めたような気もします。
ほんとうに妙な気分ですが、そうこうするうち一軒の農家につきました。

中に入ると、たった一つの明かりのもとに子供が寝かされています。

ははぁ、この子が悪いんやな。
脈をとろうと手を伸ばす士清先生。と、その時、フッと明かりが消えて真っ暗に。
「これこれ明かりがなくては診たてができん」そばにいるはずの男に言いましたが、一向に明かりを点けようとはしません。
それどころか気配すらいたしません。

ハテ?どこへ行ってしまったのやら、困った男やと思いつつ、仕方がないので手探りで子供に触ってみれば、子供は固く冷たくなっているではありませんか…
ああ、可愛そうなことをした。手遅れやったか、ナンマンダブ、ナンマンダブ。それにしても明かりがないことにはどうにもならんなぁ…士清先生、暗闇の中で弱り果ててしまいました。

 そのうち辺りがボーとしらじんで来ました。

ありゃあ、こりゃ、土手の草むらの上やないか

先生の座っていたのは一枚のむしろの上、病気の子供と思っていたのは太い丸太棒。

「いや、これは一杯くわされたわい」とあきれ返っていると人の声が聞こえてきました〜「おいおい、士清先生が納所の古狸に化かされよって、土手に座り込んでおりなさる」

 また、
「近くの納所のたぬきが、難産の雌たぬきを助けてほしいと 人間に化けてやってきました。
士清先生は、狸と知りつつ雌たぬきを助けました。」
という話も残っています。

この話を聞いた 京都の紫野大徳寺 聚光院の僧 残月が、 士清先生に「木狸庵」の額を贈りました。そして、自分の戯号を「
狸庵」、茶室を「木狸庵」と名付けたということです。

現在、津市が所蔵している 「木狸庵」の額です。

木狸庵

只這々還知
有也
紫野残月書干
相楽山中



 現在、八町通りの旧宅は国指定史跡として公開されています。
近くの福蔵寺に墓、その隣の谷川神社 州境内には先生の草稿を収めた反古塚(ほごづか)があります。

この反古塚は、亡くなる1年前 安永4年5月 自分の学説が反古で残っていることで、誤り伝えられないようにするために、不用になったメモや下書き(反古)を埋めてその上に碑を建てたものです。碑には、「なにゆえに くだきしみぞと ひととはば それとこたえむ やまとたましい」と刻んであります。これは、「一生を自分は国学の研究に力を入れていたことを誇りに思っています」という意味です。

(以上は 谷川士清諸資料より、転載させていただきました。また、谷川士清は「怪談記野狐名玉」という5巻からなる怪談も著しています。)

そして、21世紀になって蘇った 士清先生とたぬきのお話。



これは、合唱ミュージカルのための台本・楽譜集です。

舞台は何百年前の伊勢の国(三重県津市)、やさしい狸と狐たち、そして谷川士清先生のお話です。

台本・作詞 村田さち子
作曲 若松正司
音楽の友社 2001.8.5 刊



★何百年も昔の、伊勢の国のおはなし。ここでは、ずっと前から、狸と狐がけんかばかりしているのです。なんとか仲直りして、お互いに平和に過ごせたらいいのにと願う一匹の狸がおりました。そのためには、天使になれば、どんな願いごともかなって、仲直りさせることができる。

今日もたくさんの狸と狐が集まって、化け比べをしています。お互いに猟師に化けたり、ライオンに化けたりして競い合い、闘ったり。そこに、天使に化けた狸があらわれ、仲裁しますが、飛べない天使ということがばれて、袋叩きにあってしまいます。
狸は天使の翼をつけたいと、必死に飛ぶ練習をします。

それを見て同情した一匹の狐は、有名な町医者で学者の谷川士清先生のお宅連れて行き、天使になれるように頼むのです。

谷川先生は、もっとも大切なのは「愛」と言う言葉だ。天使になって仲良しにさせたいというのも、君の「愛」のこころだと説くのです。誰もが優しく、誰もが強く、誰もが幸せになれる「愛」という言葉とこころ。

やがて、狸と狐たちは、大切な「愛」にめざめ、心あらわれていくのです。

以上が、合唱ミュージカルファンタジー「天使になりたかった狸」のあらすじ。

台本・作詞が村田さち子さん。作曲が若松正司さん。三重県津児童合唱団の指揮者・川合俊平さんから委嘱を受け 2000年に制作されたものです。

最近では、2008年4月6日「津児童合唱団第40回定期演奏会」で、公演がされました。


そして、2009年

平成21年 谷川士清生誕300年記念として、上演されたのが「ことすが和訓栞伝」。

「和訓栞」の編集が終わったのは、安永4年、いよいよ出版にとりかかろうとしましたが、翌年 士清は亡くなりました。
子孫の人々が出版を受け継ぎ、私財を投じ、明治20年(1887年)まで実に100年あまりの年月をかけて 「和訓栞」は完成しました。

この劇は、明治20年 西洋文明の波が押し寄せ 時代が大きく変わろうとしていた頃、津市八町で 医業を営み、つつましいながらも 士清の子孫として誇り高く生きる5代当主・谷川養軒とその家族のおはなしです。

士清が半生をかけて編纂したものの、ついぞ果たしえなかった未完の大著「和訓栞」、その出版事業という宿命を背負い、葛藤する谷川家の人々の姿が描かれます。

冒頭 現在の「旧宅」を訪れた 女子高生に、士清のことをしかと話す おじいさん。なんと、士清らしき人に化けた「狸」(納所河原の士清狸)でした。

そして、盛り上がるのが 狸の着ぐるみを纏い 子供たちが唄い踊る「士清ソーレ」。

たぬき大好きのわたしにとっては、最良のひとときを過ごさせていただきました。

作・西田久光さん 
演出・山本賢司さん 
出演・劇団津演 新町小学校の児童たち
(士清・士清狸役 飯柴敏夫さん)
(メス狸・若き日の超古狸役 林 利美さん) 




○神奈川県相模原市の 樹(いつき)さんのサイトで、士清のこと 旧宅のこと、詳しく紹介されています。

旧宅画面にリンクしていますので、是非 御覧になってください。



○三重県民センターのやまちゃんが運営されてるサイトには、士清情報が そして津の名所旧跡がいっぱいです。

 語り部さんと歩こう津地域ガイド紹介 へ是非!


 

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